【終末期医療の現場】~①父の看取りの場にて~

まだ記憶が新しいうちに、書いておこうと思う。
私の父が、先週帰らぬ人となった。
今年の3月から人工透析を始めた父は、透析用に手術して太くした手首の血管を守るために、62歳から続けていたテニスも辞めなくてはならず、次第に父らしい元気な明るさを失っていったように思う。
それでもこんな早くに亡くなってしまうとは家族の誰もが想像していなかった。
父が呼吸が苦しいと母に訴えてから亡くなるまでの約2日間に感じた終末期医療の現場を通して、身近な家族が亡くなるという経験を振り返っておきたい。
この記事が同じような境遇におられる方に少しでも参考になればと思う。
9月2日 | 21:54 | 母から、「パパが呼吸が苦しいと言っている」と連絡 |
21:56 | 母から、「病院に電話する」と連絡 | |
22:01 | 母から、「今から病院に行ってくる」と連絡 | |
22:51 | 母から、「パパ死にそうなの」と連絡 | |
22:53 | 母から、「もう意識ないの」、「蘇生やってて、私も中に入れないの」 | |
23:16 | 母から、「蘇生で心臓は動き始めたそうだけど意識は戻らない」 「呼吸も人工呼吸」と連絡 | |
23:20 | 私が病院に到着。 父、全身の痙攣が頻発している。医師より状態の説明を受ける※1 | |
9月3日 | 24:00 | 姉が都内から到着し家族が揃う。3人で父を囲み、声をかけたり手を握ったりする |
02:00 | 医師に「延命治療はせず、自然に逝きたい」という生前の父の意向、それに同意する家族の意向を伝え、人工呼吸器のレベルを最低限に落とすと、父が意外なことに自発的に呼吸を始める※2 | |
03:00 | 自発的な呼吸が安定しているため、人工呼吸器を外す | |
07:00 | ICUから病棟へ。入院となる。母のみ付き添い可のため、姉と私はいったん帰宅 | |
13:00 | 姉と私で母に差し入れを持っていく | |
16:14 | 母から、「看護師さんが数値からみて今夜がヤマ場でしょうねとおっしゃいました。パパの顔見てるだけでいいのに。悲しいよ」と母から連絡入る | |
18:32 | 母から、「パパは小康状態です。(差し入れの)おにぎり美味しかったよー」と連絡 | |
22:00 | 連絡があったらすぐに姉と動けるよう、姉のいる実家へ私が移動。姉は寝ていて、私も寝る | |
9月4日 | 03:06 | 母から「2時50分旅立ちました。よく頑張ってくれました。ありがとう」と連絡 |
6:00 | 葬儀社の方により父は葬儀社に安置され、母は自宅へ送っていただく |
※1 医師からの説明
病院に到着したときには、すでに心肺停止状態だったため、自宅を出てから病院に到着するまでの間に恐らく心臓も呼吸も止まってしまったのだろう。
心臓が止まってしまった原因は正直なところ詳しく検査などをしてみないことには何とも言えない。
血液検査の結果で、心筋梗塞を起こしたなどの推測はできることがあるが、全身の痙攣が起きていることは、心臓が停止している間に脳への血流がなく、脳がダメージを受けていると言える。
今後意識レベルが戻る可能性は非常に低く、良くてうっすら目を開けられるくらいだろう。
今後は喉に管を通す穴をあける手術を施し、気道を確保する。そして人工呼吸器で生命を維持する。
人工透析はしない(食物を入れないため、食物を摂っていたころには血液中の不純物をきれいにする透析が必要だが、食物を摂らない今、透析をやめても影響は少ないとのこと)。
2週間ほどで転院となる予定であり、人工呼吸器が必要な患者の受け入れ先は少ないため、自宅から近い病院になるとは限らない。
また、コロナ禍のため、いったん入院したら誰も面会はできず、次に会える時はいよいよ命が消える時に呼ぶのでその時の最期の面会となる。
※2 父の生前の意向、家族の意向
※1の医師からの説明を受け、母と姉と私は話しあった。
父は常々、「死ぬときはぽっくりと死にたい。入院が長引いて家族に負担がかかるのは避けたい。」と言っていたこと、母とはお互いに「自然に死にたい。もしどちらかが先に危険な状態になった時には、延命治療はせずにおこう」と話していたこと。
また、父は持病が多くあった。高血圧、心臓の血管にステントを入れて太くしていたこと、お腹の動脈が破裂寸前になって手術したこともあるし、高脂血症だったし、軽い脳梗塞も一度経験していた。よく咳き込んでもいた。
今年の3月からは腎臓がついに機能しなくなり、人工透析を週3回受けていた。つまり、もう父の身体の臓器は色々とダメになっていた。
私は、「入院したが最後、父は一人ぽっちで母にすら会えず(意識がなくて母がいるのが分からないとしても)、その声を聞くこともできず、機械の呼吸で生かされる」ということはどうしても避けたかった。
家族みな、同じ考えだった。
蘇生法により生き返った父、でも意識なし
父の呼吸が苦しくなったその日、夕飯に親子丼が食べたい、と母にリクエストしたそうだ。
それを食べていつものようにリビングのテレビの前でくつろぎ、21時頃、父は寝室に行った。
呼吸が苦しいと母に訴え、病院に行き、それから2日後に、父は亡くなった。
姉と私が病院に到着したときには、父はいったん死んでしまったところを、蘇生法により心臓がまた動いてくれていて、人工呼吸器により呼吸ができている状態だったが、意識はもうなく、目は閉じられており口には人工呼吸器のチューブが入っており、手には点滴の管があり、鼻にもなにかのチューブがすぐ処置できるようにくっつけてあった。
けれど、父の手は暖かく、意識はなくても耳は聞こえているということを前に聞いたことがあったので、何度も父の耳元で話しかけた。
手が暖かい、それがまだ父が生きていることの証であり、とても嬉しかった。
裸の身体にオムツだけ付けて、薄手の白いバスタオルが掛けてあったのが寒そうで、私が着てきた羽織を父に掛けたりしていたら、看護師さんがタオルケットを出してくれた。「気付くのが遅くてすみません。」と言ってくれた。
意識がないから、寒さも感じないのよと母はあきらめたように言うが、激しく起こっている痙攣をもパパは意識がないんだから辛くもないのよと自分に言い聞かせたい気持ちもあるのだろうなと思った。
人工呼吸器を外せませんか?
母のまっすぐな意思で、喉を切開する手術はしないことにした。 それを医師に伝えた。
延命治療もしない、入院させて父を一人ぽっちにはさせたくない、朝が来れば入院になってしまう。
このまま家族で看取りたいという家族の意向を伝えた。
医師は、「そうなんですね。私たちは急を要するために不要な処置(蘇生のこと)をしてしまったのかもしれません。」と言った。
でもそれは違う。母の車の中でいったんは心臓が止まってしまった冷たい父に会うのと、人工呼吸でも心臓が動いていて暖かい父の手を握れるのとでは。
聞こえているか分からないけれど、きっと聞こえていると信じて父にありがとうと言えるのと言えないのでは。
蘇生をしてくれて、本当に感謝している。
医師は、「明らかに人工呼吸器で生きている人の人工呼吸器を外すことはできない。それは殺人と同じだから。」と言った。
「よくドラマで見る、人工呼吸器を外すという状況はどのような時に起こるのでしょうか? あれはドラマの中だけのことなのですか?」と私は不思議に思ったことをそのまま聞いた。
医師は少し困ったように「ご本人の意向、ご家族の意向、その患者の医師一人だけではなく他の医師や看護チーム全体で話しあい、回復の見込みがなく死期がすぐそこにあるという場合などには人工呼吸器を外すことはできないが、人工呼吸器のレベルを最低限まで落とすことはできなくはない。」というようなことを仰ったと記憶している。
いったん、家族で話し合いの時間をもらう。
話し合うまでもなく、言葉に出さずとも、3人の考えは同じだった。
暖かい父の手を握り、耳元で「パパ、大好きだよ。ありがとうね。ママのことは心配しないでね。」と伝えた。
みな静かに、「生きている父」を感じた。父の目からは時々涙が落ちた。ハンカチで拭い、チューブが入った口から少しだけお茶をつたわせた。痙攣を鎮める薬の効き目は短く、再度入れてもらったが二度目はまったく効かなかった。
看護師に医師を呼んでもらうようお願いした。
「人工呼吸器のレベルを落としてください。家族皆で今看取ります。」と母が伝えた。
医師が、静かに頷き、人工呼吸器のパネルをタッチしはじめ、最低限のレベルに落としたと思われた。
すぐに父は逝ってしまうと思った。私たちはみな、覚悟を決めた。
ところが、父は自分で呼吸を始めたのだ。
医師は、「もしかしたら今までは人工呼吸器が呼吸を助けれくれるから、それに甘えて自発的な呼吸が出ていなかったのかもしれない。人工呼吸器が頼れなくなり、自分で呼吸しなきゃという感じだと思う。」と言った。
パパ、すごいじゃん!
やればできるじゃん!
と嬉しい気持ちになるが、父の全身の状態を思うと、どうしたって先は長くないこと、意識は戻らないことを思い出す。
でも、やっぱりすごいよ。 ありがとうパパ。
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